【映画コラム】「コンテイジョン」

aka.Contagion

後引く怖さの『コンテイジョン』、ソダーバーグ流の感染パニック映画

Contagionとは、直訳すれば接触感染。
そのタイトル通り、スティーブン・ソダーバーグ監督の映画『コンテイジョン』は、
致死率の高い未知のウイルスが、世界各地に広がりパニックに陥る様を描いている。
しかし、これまでの感染パニックものとはひと味違う怖さが後に残る。
例えば、エボラ出血熱に似たウイルスによる
パンデミックを題材にした作品『アウトブレイク』(’95) では、
とにかく感染したら最後、必ず死んでしまうという恐怖と、
ウイルスの宿主である一匹のサルにヒヤヒヤさせられた。
あるいは、感染すると凶暴になってしまうという
ウイルスが猛威を振るう世界を描いた『28日後… 』(’02) では、
ウイルスによって人間が人間でなくなってしまう恐ろしさと、
主人公が感染するか否かのサバイバルに戦慄を覚えた。
どちらも観客にとって、ウイルスの正体は“見えるもの”であり、
登場人物がどうやって発症源を突き止めるか、
ウイルスとどう戦うかといったことが軸となっていた。
これが、『コンテイジョン』の場合は、全く別の所に視点が置かれている。
もちろん、未知のウイルスの発症源を探ろうとするし、
ワクチンを開発しようともする。
しかし、ウイルスの正体よりもむしろ、
人間の恐怖心やエゴから何が生まれるか、に焦点が当たっている。
ソダーバーグ監督が描く感染パニックは、とにかく客観的なのだ。
誰かがヒーローになってウイルス撲滅に乗り出すということでもなく、
感染の恐怖の中をホラー映画ばりにサバイバルするという内容でもない。
医療関係者や政府は黙々と、
新種のウイルスが出た事に対し、
自分たちの仕事をこなそうとするし、
家族が発症してしまった者は、
ウイルスに戦いを挑むでもなく、
ひたすら感染を避けてワクチンを待ったりする。
発症から何日目か、という数字だけが不気味に増えていく。
起きている事は非日常なのに、
それをまるで日常の一コマかのように淡々と綴っているのだ。
主役級のキャストたちが演じるキャラクターの中で、
そんなソダーバーグ監督の立ち位置が一番よく見てとれるのが、
ジュード・ロウ演じるフリー・ジャーナリストだ。
ウイルスによる異変をいち早く察知しながら、
結局はそれを自分の商売の道具にし、
彼が発した独りよがりなネット情報によって人々はパニックに陥る。
偽の情報に翻弄されて命を落としていく人々を、
自分は完全なる防護服の中から冷静に見つめる。
果たして本当に恐ろしいのは、
ウイルス自体なのか、
それとも、未知の恐怖に遭遇した時の人間の心理なのか、
わからなくなるくらいだ。
つまり、『コンテイジョン』の中のウイルスは、
徹底的に“見えないもの”扱いなのだ。
ウイルスの抗体を見つけ、ワクチン製造には至るが、
正体がわかったところで、
感染者の触ったドアノブ、コップですら媒体となるのに、
どうやって防げと言うのか?
更に言えば、恐怖心を煽るデマやニセ情報が氾濫する中で、
一体何を信じればいいのか? 
ワクチンをいち早く手に入れる為なら、
何をしてもいいのか?
ウイルスが見えたとして、
人間の心理は見えない恐怖のまま残る。
それにしてもこの映画、見ていると、
途中から自分の手で顔を触るのが異様に怖くなる
。最後のクレジットで「フィクションです」と言われても、
つい手を洗いたくなる。
それほど強烈なイメージを刷り込む作品だ。(工藤静佳)