【映画コラム】「ブラック・スワン」

aka.Black Swan

『π (パイ)』、『レスラー』そして『ブラック・スワン』—ダーレン・アロノフスキー監督が誘う、虚構と現実の狭間

モノクロのSFスリラー『π(パイ)』(’98) で、
鮮烈な長編監督デビューをしたダーレン・アロノフスキー監督。
新作『ブラック・スワン』では、バレエ・スリラーというジャンルで、
新たなサイコ・スリラーの扉を開いた。
ポキポキと軋む、トウシューズを履いたダンサーの足先。
執拗に続く、主人公の後追い映像。
『ブラック・スワン』が美しいだけのバレエ映画でないことは、冒頭から明確だ。
プリマに抜擢されたバレリーナ・ニナは、
主役へのプレッシャーと完璧主義な性格から精神に異常をきたし、
役作りに没頭すればするほど、現実と妄想の境がわからなくなっていく。
ニナの視点で描かれるこの作品は、
刻々と周囲が狂気に包まれていき、
観客を恐怖と虚構の世界へ引きずり込む。
アロノフスキー監督は『ブラック・スワン』を、
自身の前作『レスラー』(’08)の姉妹編だと位置づけている。
『レスラー』は、ミッキー・ローク演じる、落ちぶれたかつてのスター・レスラーが、
生死をかけてリングに復帰する話だ。
監督は、「レスリングとバレエは、芸術としての領域は違えども、
どちらも肉体を酷使して観客を魅了する。
両作品の主人公は似たような経験をするし、
根本に同じものをもっている」とコメントしている。
確かに、両作品とも虚構と現実の世界を行き来する映画だ。
レスラー・ランディは、心臓発作を機に引退を余儀なくされる。
疎遠だった娘との仲を修復しようとしたり、
スーパーのアルバイトで生活しようとするが、
うまくいかず、復帰を決意する。
それが死に繋がると解っていても、
「俺にとって痛いのは、外の現実の方だ」とリングへ戻るのだ。
善玉VS 悪玉をリング上で演じる虚構の世界こそ、ランディの居場所だった。
現実に身を投じてみて、ランディは目覚めた。
一方、バレリーナ・ニナは、妄想という虚構の世界が頂点に達したことで開眼するのだ。
しかし、虚構と現実が交錯するスリラーという演出で見る限り、
『ブラック・スワン』はむしろ、SFスリラー『π(パイ)』の世界観に近く映る。
『π(パイ)』は、アロノフスキー監督の長編デビュー作であり、
サンダンス映画祭で最優秀監督賞を獲得した作品だ。
人並みはずれたIQを持つ数学者マックスが、
「世の中の全ての事象は数字に置き換えられ、一定の法則を持つ」と信じ、
その数式を解明しようとする話だ。
極限まで数列を追求するマックスは、
次第に幻覚を見るようになり、ついには現実と幻覚の区別がつかなくなるのだ。
果たしてこの光景は、現実なのか、主人公の妄想なのか。
アロノフスキー監督が描く虚構と現実の狭間は、
観客すら居場所がわからない境地に至るほど、卓越したものがある。
モノクロ映像にテクノ音楽をのせ、錯乱する世界を描いた『π(パイ)』に比べ、
『ブラック・スワン』は、スリラーとして更なる高みに到達している。
一つ一つのシーンはもちろん、有名なバレエの古典「白鳥の湖」を、
映像・音楽・ストーリー展開全てのベースに盛り込みつつ、
狂っていくニナの心理とシンクロさせているからだ。
バレエ映画の金字塔として君臨する『赤い靴』(’48)も、
アンデルセン童話の「赤い靴」をベースにし、
「息絶えるまで踊り続ける」バレリーナの話と見事にシンクロさせた傑作だった。
芸術のために死ねるか? を純粋に問うた『赤い靴』とはジャンルが少し違うが、
『ブラック・スワン』は、バレエ・スリラーとして、
この名画に迫る演出の高さを伺わせる。(工藤静佳)