【映画コラム】「ドラゴン・タトゥーの女」ルーニ・マーラ ver.

aka. The Girl with the Dragon Tattoo

『ドラゴン・タトゥーの女』 ルーニ・マーラの狂気と健気さに

新ダーク・ヒロイン像を見る

これほどサディスティックで、愛おしいダーク・ヒロインは初めてだ。
暗殺者や凄腕の殺し屋、スパイなど、過去たくさんのダークなヒロインが誕生してきたが、
『ドラゴン・タトゥーの女』でルーニー・マーラが演じた主人公リスベットは、
新たな闇のヒロインとして、必ず観る者の脳裏に焼き付くはずだ。
世界累計6500万部超え、スウェーデン発のベストセラー・ミステリーの映像化。
しかもスウェーデン版映画のヒット後に作られた、ハリウッド版リメイク。
世界中が注目したデヴィッド・フィンチャー監督、
ダニエル・クレイグ主演の『ドラゴン・タトゥーの女』は、
想像を上回る出来だと批評家たちから絶賛されている。
中でも、魅力的すぎると誰もがコメントしているのが、
もう一人の主演、新星ルーニー・マーラだ。

スウェーデンの荘厳な自然と孤島を舞台に、
40年前の奇妙な少女失踪事件を解明することとなった雑誌ジャーナリスト。
その相棒として共に真相を突き止めるのが、
パンクファッションに身を包む天才ハッカー、マーラ演じるリスベットだ。
物語は事件の解明が軸だが、
随所にマーラの壮絶な日常が挟まれる。
ある時、社会的な権力を傘に、
リスベットは卑劣な性暴力を受ける。
やられたフリをしながら、
リスベットは用意周到に仕返しを計画するのだが、
その過程が、まさにマーラのキャラクターの深さを印象づける。
女性は目を背けたくなる凄惨な性暴力シーンの後、
リスベットの表情ははっきり伺えない。
ただ、背中のドラゴン・タトゥーが震える。
やはりスパイキーな格好をしていても、
弱い女の部分を吐露するのかと思いきや、
無表情に日々を過ごし、全てが整った時、
レイプ男に強烈な罰を与えるのだ。
これが、かなりサディスティック。
しかし、そこにはリスベット流の原理が一本貫かれている。
同じように、彼女が選ぶ仕事、言動、生き方には、
常に彼女流の原理が存在するのだ。
この芯の強さに、一瞬で彼女の虜となる。
闇の部分と芯の強さをもったダーク・ヒロインは、確かに今までもいた。
信念の元に復讐劇を果たす「キャットウーマン」(‘04) や
「キル・ビル」(’03,’04) がそのタイプかもしれない。
しかし、マーラは彼女たちほど女として出来上がっていない。
風貌からも判る通り、青白い顔にガリガリの体、
一見少年かと見まがうほど華奢で、タフなダーク・ヒロインではない。
では、中性的な魅力の備わったダーク・ヒロインと比べるとどうか。
浮かぶのは、リュック・ベッソン監督の「ニキータ」(’90) と
「レオン」(’94) だろうか。
しかしマーラは、ニキータのように感情をあらわにしない。
年齢的な違いもあるが、「レオン」のマチルダほど少女を前面に出さない。

リスベットは、とにかく無表情なのだ。
そして思慮深い。
中性的でありながら、女性としての欲望は押さえない。
想像を越える狂気を秘め、つかみ所がないようだが、
ラストシーンの彼女を観ると、その健気さに思わず愛おしくなる。
もちろん、相変わらずの無表情なのだが、
しぐさで彼女の感情が読み取れる。
映画は、40年前の少女失踪から連続猟奇殺人事件解明へと話が進むが、
途中からほとんどリスベットの言動を追っているような感覚になり、
このラストでトドメを刺される。
なるほど、だから「ドラゴン・タトゥーの女」というタイトルになるのだと思い知る。
口数も少なく、アップの表情も少ないのに、
これほどの存在感を示したリスベット役のルーニー・マーラ。
初のメジャー作品主演で、
いきなりゴールデン・グローブ賞主演女優賞候補になるのも頷ける。
スウェーデン版とハリウッド版、両方を観た批評家は口を揃えて言う。
「スウェーデン版リスベットのノオミ・ラパスは最高だった。
そして、マーラのリスベットはもっといい」と。
デヴィッド・フィンチャー、ダニエル・クレイグという、
世界的なカリスマ監督と演技派俳優を従えてなお、
賞賛を浴びる時点で、
マーラのリスベットがいかにズバ抜けていたかがわかる。(工藤静佳)

【映画コラム】「ドラゴン・タトゥーの女」デヴィッド・フィンチャーver.

aka. The Girl with the Dragon Tattoo

『ドラゴン・タトゥーの女』―デヴィッド・フィンチャー印の

卓越した凶暴性と才気の結晶をストレートで楽しめ!

圧倒的な映像量と疾走感。
『ドラゴン・タトゥーの女』は、
”デヴィッド・フィンチャーの映画”として
映画史に記録される事になるだろう。
これほどフィンチャーの演出力と表現力をストレートに出した作品は久しぶりだし、
主演の2人、音楽、シーン構成と編集に至るまで、全てが相乗効果を成した傑作だからだ。
まずは冒頭のツェッペリンでやられる。
ミュージックビデオ時代のフィンチャーを思い出す、
「移民の歌」の叫び声に合わせたメタリックな映像で、
観客は直ぐさまフィンチャー・ワールドへ飛び込む。
そして慌ただしく始まる雑誌ジャーナリスト・ミカエルの敗訴シーン。
さらに、少女失踪事件解明の依頼人が抱える謎、
バイクを飛ばす天才ハッカー・リスベットの登場と、
3つの事象が平行して描かれ、息つく暇を与えない。
話が進むにつれ画面を占めるのは、
猟奇的な連続殺人事件関連の映像となり、
凶暴なフィンチャー演出が踊りだすのだ。
過去のフィンチャー作品で、凶暴性が連想されるのは、
『セブン』(’95)や『ファイト・クラブ』(’99)、
そして『ゾディアック』(’07)だ。
ここ数年は、『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(’08)、
『ソーシャル・ネットワーク』(’10)と、
内面の凶暴性や拳をあげない社会の暴力性を描く作品が続いたせいか、
久々にフィンチャー監督のストレートパンチをくらった気分になる。
しかしここで特筆すべきは、
『ドラゴン・タトゥーの女』がスウェーデン発ベストセラー小説の映画化であり、
既に母国で映像化された後の製作だった点である。
映画は、同じ原作でも、
監督による解釈が違うだけで全くの新作になる代物だ。
過去ハリウッドが、英語圏以外の原作、
あるいはオリジナルがあるものを再映像化した作品で、
母国語版を越えて映画史に残る傑作と位置づけられるものは、実は少ない。
例えば、ドイツの巨匠ヴィム・ヴェンダース監督の『ベルリン・天使の詩』(’87)を、
ハリウッドが英語版『シティ・オブ・エンジェル』(’88)としてリメイクしたが、
オリジナルとは比べ物にならない評価に終わっている。
最近では、今回同様スウェーデンが舞台の作品『ぼくのエリ200歳の少女』(’08)を、
アメリカ人監督マット・リーヴスが『モールス』(’10)として英語化したことが話題になったが、
これも北欧がもつ圧倒的な雪の閉塞感には及ばなかった。
原作国の空気感や匂いというものは、
どうしてもハリウッド版では薄れてしまうし、
総じて作品の魅力までも下げてしまう。
今回『ドラゴン・タトゥーの女』でフィンチャー監督は、
英語化であっても、舞台をスウェーデンのままにし、
登場人物の名前や名称など全て原作通りにした。
過去の例を見る限り、それは一種の賭けだし、
生粋のアメリカ人であるフィンチャー監督が、
スウェーデンの空気感を取り込んだ表現ができるのか、
不安視したのが正直なところだ。
しかし監督は、原作のもつスウェーデン色をカバーして余りある、
フィンチャー感とでも言うべき、
独特のカラーとテンポ、音のスパイスで別格の空気感を作り上げた。

一例をあげてみよう。
まず事件の舞台となるスウェーデンの孤島。
そこには古びた館と、やたらモダンな近代住居が対照的に登場する。
近代住居では、すきま風が得体の知れない獣の声のように響く。
あるいは、40年間未解決の事件を象徴する押し花の額縁が並ぶシーン。
直前までダニエル・クレイグ演じるミカエルの表情で引っぱり、
壁一面の押し花を圧迫感と共に一気に引き絵で見せる。
ルーニー・マーラ扮するリスベットは、
タトゥーを印象づけるバックショットを多用し、
前半は謎めいた女を貫き、
後半はバックショットそのものが彼女の感情を表す描写となっていく。
登場人物それぞれの、人と会話する時の距離感を確実に変える。etc…
これらは全てスウェーデン版にはない、フィンチャーの傑出した演出によるものだ。
このたぐいのフィンチャー的映像と編集が、158分全てを埋め尽くしている。
それほど、フィンチャー臭が強烈な映画に仕上っているのだ。
もちろん少数意見として、スウェーデン版に僅かながらの軍配をあげたいとする声もある。
しかし筆者が見た限り、そしてヨーロッパを含む大勢の批評家のコメントを総合しても、
フィンチャーの演出に勝る箇所は、スウェーデン版には見当たらない。
冒頭で、デヴィッド・フィンチャーの“代表作”ではなく
“映画”と記したのは、この理由からだ。
『ドラゴン・タトゥーの女』映画版=(イコール)、フィンチャー監督であり、
ダニエル・クレイグ、ルーニー・マーラの顔が即浮かぶと言う事だ。(工藤静佳)