【映画コラム】「ブラック・スワン」

aka.Black Swan

『π (パイ)』、『レスラー』そして『ブラック・スワン』—ダーレン・アロノフスキー監督が誘う、虚構と現実の狭間

モノクロのSFスリラー『π(パイ)』(’98) で、
鮮烈な長編監督デビューをしたダーレン・アロノフスキー監督。
新作『ブラック・スワン』では、バレエ・スリラーというジャンルで、
新たなサイコ・スリラーの扉を開いた。
ポキポキと軋む、トウシューズを履いたダンサーの足先。
執拗に続く、主人公の後追い映像。
『ブラック・スワン』が美しいだけのバレエ映画でないことは、冒頭から明確だ。
プリマに抜擢されたバレリーナ・ニナは、
主役へのプレッシャーと完璧主義な性格から精神に異常をきたし、
役作りに没頭すればするほど、現実と妄想の境がわからなくなっていく。
ニナの視点で描かれるこの作品は、
刻々と周囲が狂気に包まれていき、
観客を恐怖と虚構の世界へ引きずり込む。
アロノフスキー監督は『ブラック・スワン』を、
自身の前作『レスラー』(’08)の姉妹編だと位置づけている。
『レスラー』は、ミッキー・ローク演じる、落ちぶれたかつてのスター・レスラーが、
生死をかけてリングに復帰する話だ。
監督は、「レスリングとバレエは、芸術としての領域は違えども、
どちらも肉体を酷使して観客を魅了する。
両作品の主人公は似たような経験をするし、
根本に同じものをもっている」とコメントしている。
確かに、両作品とも虚構と現実の世界を行き来する映画だ。
レスラー・ランディは、心臓発作を機に引退を余儀なくされる。
疎遠だった娘との仲を修復しようとしたり、
スーパーのアルバイトで生活しようとするが、
うまくいかず、復帰を決意する。
それが死に繋がると解っていても、
「俺にとって痛いのは、外の現実の方だ」とリングへ戻るのだ。
善玉VS 悪玉をリング上で演じる虚構の世界こそ、ランディの居場所だった。
現実に身を投じてみて、ランディは目覚めた。
一方、バレリーナ・ニナは、妄想という虚構の世界が頂点に達したことで開眼するのだ。
しかし、虚構と現実が交錯するスリラーという演出で見る限り、
『ブラック・スワン』はむしろ、SFスリラー『π(パイ)』の世界観に近く映る。
『π(パイ)』は、アロノフスキー監督の長編デビュー作であり、
サンダンス映画祭で最優秀監督賞を獲得した作品だ。
人並みはずれたIQを持つ数学者マックスが、
「世の中の全ての事象は数字に置き換えられ、一定の法則を持つ」と信じ、
その数式を解明しようとする話だ。
極限まで数列を追求するマックスは、
次第に幻覚を見るようになり、ついには現実と幻覚の区別がつかなくなるのだ。
果たしてこの光景は、現実なのか、主人公の妄想なのか。
アロノフスキー監督が描く虚構と現実の狭間は、
観客すら居場所がわからない境地に至るほど、卓越したものがある。
モノクロ映像にテクノ音楽をのせ、錯乱する世界を描いた『π(パイ)』に比べ、
『ブラック・スワン』は、スリラーとして更なる高みに到達している。
一つ一つのシーンはもちろん、有名なバレエの古典「白鳥の湖」を、
映像・音楽・ストーリー展開全てのベースに盛り込みつつ、
狂っていくニナの心理とシンクロさせているからだ。
バレエ映画の金字塔として君臨する『赤い靴』(’48)も、
アンデルセン童話の「赤い靴」をベースにし、
「息絶えるまで踊り続ける」バレリーナの話と見事にシンクロさせた傑作だった。
芸術のために死ねるか? を純粋に問うた『赤い靴』とはジャンルが少し違うが、
『ブラック・スワン』は、バレエ・スリラーとして、
この名画に迫る演出の高さを伺わせる。(工藤静佳)

【映画コラム】「コンテイジョン」

aka.Contagion

後引く怖さの『コンテイジョン』、ソダーバーグ流の感染パニック映画

Contagionとは、直訳すれば接触感染。
そのタイトル通り、スティーブン・ソダーバーグ監督の映画『コンテイジョン』は、
致死率の高い未知のウイルスが、世界各地に広がりパニックに陥る様を描いている。
しかし、これまでの感染パニックものとはひと味違う怖さが後に残る。
例えば、エボラ出血熱に似たウイルスによる
パンデミックを題材にした作品『アウトブレイク』(’95) では、
とにかく感染したら最後、必ず死んでしまうという恐怖と、
ウイルスの宿主である一匹のサルにヒヤヒヤさせられた。
あるいは、感染すると凶暴になってしまうという
ウイルスが猛威を振るう世界を描いた『28日後… 』(’02) では、
ウイルスによって人間が人間でなくなってしまう恐ろしさと、
主人公が感染するか否かのサバイバルに戦慄を覚えた。
どちらも観客にとって、ウイルスの正体は“見えるもの”であり、
登場人物がどうやって発症源を突き止めるか、
ウイルスとどう戦うかといったことが軸となっていた。
これが、『コンテイジョン』の場合は、全く別の所に視点が置かれている。
もちろん、未知のウイルスの発症源を探ろうとするし、
ワクチンを開発しようともする。
しかし、ウイルスの正体よりもむしろ、
人間の恐怖心やエゴから何が生まれるか、に焦点が当たっている。
ソダーバーグ監督が描く感染パニックは、とにかく客観的なのだ。
誰かがヒーローになってウイルス撲滅に乗り出すということでもなく、
感染の恐怖の中をホラー映画ばりにサバイバルするという内容でもない。
医療関係者や政府は黙々と、
新種のウイルスが出た事に対し、
自分たちの仕事をこなそうとするし、
家族が発症してしまった者は、
ウイルスに戦いを挑むでもなく、
ひたすら感染を避けてワクチンを待ったりする。
発症から何日目か、という数字だけが不気味に増えていく。
起きている事は非日常なのに、
それをまるで日常の一コマかのように淡々と綴っているのだ。
主役級のキャストたちが演じるキャラクターの中で、
そんなソダーバーグ監督の立ち位置が一番よく見てとれるのが、
ジュード・ロウ演じるフリー・ジャーナリストだ。
ウイルスによる異変をいち早く察知しながら、
結局はそれを自分の商売の道具にし、
彼が発した独りよがりなネット情報によって人々はパニックに陥る。
偽の情報に翻弄されて命を落としていく人々を、
自分は完全なる防護服の中から冷静に見つめる。
果たして本当に恐ろしいのは、
ウイルス自体なのか、
それとも、未知の恐怖に遭遇した時の人間の心理なのか、
わからなくなるくらいだ。
つまり、『コンテイジョン』の中のウイルスは、
徹底的に“見えないもの”扱いなのだ。
ウイルスの抗体を見つけ、ワクチン製造には至るが、
正体がわかったところで、
感染者の触ったドアノブ、コップですら媒体となるのに、
どうやって防げと言うのか?
更に言えば、恐怖心を煽るデマやニセ情報が氾濫する中で、
一体何を信じればいいのか? 
ワクチンをいち早く手に入れる為なら、
何をしてもいいのか?
ウイルスが見えたとして、
人間の心理は見えない恐怖のまま残る。
それにしてもこの映画、見ていると、
途中から自分の手で顔を触るのが異様に怖くなる
。最後のクレジットで「フィクションです」と言われても、
つい手を洗いたくなる。
それほど強烈なイメージを刷り込む作品だ。(工藤静佳)

【映画コラム】「裏切りのサーカス」

aka.Tinker Tailor Soldier Spy

緊迫の2時間7分に耐えられるか!?

『裏切りのサーカス』は2度見必至の高密度スパイ映画

一瞬たりとも目が離せない。
トーマス・アルフレッドソン監督作『裏切りのサーカス』は、
緊迫感と威圧感みなぎる作品だ。
通称サーカスと呼ばれる英国諜報部、
一度は退任した初老幹部の1人が、
サーカス内部に潜む二重スパイを探し出す。
映画の主旨は一行で表せるが、
その実は、細かなジグソーパズルを慎重に組み合わせていくような緻密さでひも解かれる。
アルフレッドソン監督の、挑戦状ともとれる巧みな構成と、
ゲイリー・オールドマンはじめ、英国きっての名優たちによる超絶技がなし得る、至極の快作だ。
ソ連の二重スパイ’もぐら’は、サーカス幹部5人の中の誰かだ。
サーカスのリーダー・コントロールは、
もぐらを突き止めるべく、工作員をブダペストへ送りこむ。
映画の初っぱな、作品の向かうべきゴールが示されるので、
観る側は「もぐら探し」の話なのだな、と心得る。
しかし、悠長に構える間は与えられない。
直後、ブダペスト入りした工作員は銃弾に倒れる。
リーダー・コントロールは失脚し謎の死を遂げる。
話がガンガン展開する。
もうこの時点で観客は、
何が起きて、
誰が死んで、
この先どうなるのか、
頭をフル回転させなければならない。
そして、冒頭のブダペストのシーンから既に、
「目を離すな」というアルフレッドソン監督の挑戦状が叩き付けられる。
作品の時代背景は冷戦時代の1970年代前半。
東側の同盟国だったハンガリーに西側のスパイが行くのだから、
緊張するのは当たり前だが、その度合いが半端ではない。
早朝とおぼしきブダペストの街中のカフェで、工作員は取引きをしようとする。
しかし、どうも空気が異様だ。
ウエイターはやたら汗をかき、窓を開けたご婦人は言葉なく隠れる。
掃除をするボーイも、少し離れた席で乳児に乳を与える母親も、
時折響く列車の轟音も、なんだか全てが怪しく見える。
さすがに工作員は席を外そうとする。
その瞬間、2発の銃弾が空気を切り裂く...。
スパイ映画にありがちな銃撃戦も、工作員同士の無駄な会話も一切なく、
沈黙と騒音と回りの景色だけ。
それだけで、つばも呑み込めないほどの息苦しさを、
アルフレッドソン監督は表現してしまうのだ。
この手の息苦しさが、ほとんど2時間7分続く。
しかも、何の前触れもなく、
回想シーンや、射殺されたとおぼしき工作員の足跡などが挟まれるので、
頭の中でパズルのピースを埋めては全体像を思い描く作業がひっきりなしに要求される。
それでも、ストーリーから脱落せずにいられるのは、
「もぐら探し」というゴールの明確さと、
アルフレッドソン監督が提示する、
シーンごとに変わる微妙なニュアンスの違いがあるからだ。

アルフレッドソン監督は、映像から匂いを醸し出すことのできる天才だと思う。
長編デビュー作『ぼくのエリ 200歳の少女』(08)の時もそうだったが、
少女が佇んでいるだけなのに、どこか奇異で血なまぐさいという感覚を、
ほんの少しの違和感と景色を重ねることで、異臭のように漂わせるのだ。
今回も、1つ1つのショットにその場の空気、
温度の違いが感じ取れるような映像の撮り方や色味が駆使されていて、
そのシーンの緊張度合いや時系列が頭にすっと入ってくる。
埃っぽいサーカスの建物内部を、
リフトに乗せられた書類越しに覗かせてみたり、
幹部の集まる会議室を、
防音パネルに包まれた窒息しそうな小部屋に仕立てたりと、
とにかく全てが計算されている。
監督の巧妙な演出を、
さらに極上のものへと昇華させているのが、
やはり出演者たちの名演だ。
主役のゲイリー・オールドマン扮するスマイリーなど、
映画が始まって暫く経つまで存在すらわからない。
やっと出てきたと思ったら一言もしゃべらない。
大きく動揺するのは妻の不貞を目撃した瞬間ぐらいで、
後はとにかく寡黙。
にもかかわらず、どんどん存在感は増してくるし、
わずかな眉の歪みで何かに感づいたな、と解らせる。
その他、コリン・ファース、
名優ジョン・ハート、
トビー・ジョーンズらサーカスのメンバーだけでなく、
工作員役のマーク・ストロングやトム・ハーディに至るまで、
誰1人スキを見せない。
皆、360度糸を張り巡らせるスパイの演技を貫いている。
原作は、スパイ小説の最高傑作と言われるジョン・ル・カレ著の
「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」。
母国イギリスでTVドラマ化された際は7話を要したという大作を、
ここまで濃縮し、頭脳サスペンス・エンターテインメントに仕上げた。
とにかくこの作品、神経衰弱のような魔力を持っている。
たとえ一度クリアしても、その過程は何通りもありそうで、
つい2度3度と挑みたくなる。(工藤静佳) 

【映画コラム】「マネー・ボール」

aka. Moneyball

アメリカンドリーム抜き、敗北感が魅力のスポーツ映画『マネーボール』

ベースボール・ムービーはハリウッド・スポーツ映画のドル箱と言われている。
80年代半ばから90年代にかけて、メジャーリーガーを題材にした感動作が多数ヒットした。
そして今、ベースボール・ムービー最高傑作のひとつと賞賛されているのは、
選手ではなく、球団GMを主人公にした『マネーボール』だ。
メジャーリーグの内幕や非情さも垣間みる事のできる作品だが、
好評の所以は、これまでのスポーツ映画にはない、
共感できる人生観にあるのかもしれない。
この映画は敗北のシーンから始まる。
2001年、オークランド・アスレチックスは、
ニューヨーク・ヤンキーズに敗れリーグ優勝を逃す。
貧乏球団アスレチックスは、
スター選手を次々と他所に引き抜かれ、
弱小と化すしかない状況だった。
そこで、ブラッド・ピット扮するアスレチックスの若きGMビリー・ビーンは、
型破りな理論を実践し、球団を奇跡の常勝軍団へと導くのだ。
大抵のスポーツ映画なら、敗北から始まると、
その後ひたすら勝利へ突き進むとか、
主人公が挫折を乗り越え最終的には栄光を手にするといった展開になる。
紆余曲折があればあるほど、最後の勝利の瞬間が爽快でたまらない。
観客がスポーツ映画に求めるのは、
そういった何かしらの達成感ではないだろうか。
しかし、『マネーボール』の場合、その手の達成感は味わえない。
確かに、アスレチックスはリーグ史に残る20連勝を果たすが、
主人公のビリーはちっとも嬉しそうじゃない。
「最後の一勝がなければ意味がない」と黙り込むのだ。
『マネーボール』は、緊迫のゲームシーンよりも、
選手トレードの駆け引きよりも、
このブラッド・ピットの沈黙の方に引き込まれる。
そこが、これまでのベースボール映画とは違うところだ。
ビリーの沈黙から醸し出されるのは、
前人未到の20連勝をしてもなお、
満たされることのない敗北感だ。
それは、自分の人生に対する後悔。
主人公はかつて、将来を嘱望された選手でありながら、
プロ転向後は振るわず、人生を誤ったという悔いがある。
彼にとっての「最後の一勝」とは、
本当は優勝することではなく、
人生でのたった一つの挫折を乗り越えることなのではないだろうか。
ビリーの、過去に対する思いが繰り返し挿入されることからも、
そんな感情が読み取れる。
人生一発逆転といったアメリカンドリーム・ストーリーではないものの、
『マネーボール』が多くの人の支持を得たのは、
何をもって自分は勝ちと思えるのかわからない、
そういう現代人の心理とリンクしたからなのだと思う。
頑張れば報われるとか、
信じればどうにかなるとか、
そんな甘い世界などどこにもない。
それでも、いつかは自分の納得する勝利を手に入れたいと奮闘するビリーの人生観は、
野球を知らずとも共感できる。

ところで、人生の敗北感をどうすれば乗り越えられるのか、
主人公は終わりのない挑戦を続けるのだが、
映画では一つの答えが提示される。
それは、ビリーの娘が父の為に歌った曲だ。
レンカという歌手の「The Show」の替え歌で、
迷える人生だけど、「ショーを楽しもう」というフレーズを、
「パパ、野球を楽しんで」と歌うのだ。
人生をもっと楽しめばいい? 
そうできればどんなにいいだろうか、
主人公のやり切れなさを、
ブラッド・ピットが沈黙の演技で見事に表現している。(工藤静佳)

【映画コラム】「ドラゴン・タトゥーの女」ルーニ・マーラ ver.

aka. The Girl with the Dragon Tattoo

『ドラゴン・タトゥーの女』 ルーニ・マーラの狂気と健気さに

新ダーク・ヒロイン像を見る

これほどサディスティックで、愛おしいダーク・ヒロインは初めてだ。
暗殺者や凄腕の殺し屋、スパイなど、過去たくさんのダークなヒロインが誕生してきたが、
『ドラゴン・タトゥーの女』でルーニー・マーラが演じた主人公リスベットは、
新たな闇のヒロインとして、必ず観る者の脳裏に焼き付くはずだ。
世界累計6500万部超え、スウェーデン発のベストセラー・ミステリーの映像化。
しかもスウェーデン版映画のヒット後に作られた、ハリウッド版リメイク。
世界中が注目したデヴィッド・フィンチャー監督、
ダニエル・クレイグ主演の『ドラゴン・タトゥーの女』は、
想像を上回る出来だと批評家たちから絶賛されている。
中でも、魅力的すぎると誰もがコメントしているのが、
もう一人の主演、新星ルーニー・マーラだ。

スウェーデンの荘厳な自然と孤島を舞台に、
40年前の奇妙な少女失踪事件を解明することとなった雑誌ジャーナリスト。
その相棒として共に真相を突き止めるのが、
パンクファッションに身を包む天才ハッカー、マーラ演じるリスベットだ。
物語は事件の解明が軸だが、
随所にマーラの壮絶な日常が挟まれる。
ある時、社会的な権力を傘に、
リスベットは卑劣な性暴力を受ける。
やられたフリをしながら、
リスベットは用意周到に仕返しを計画するのだが、
その過程が、まさにマーラのキャラクターの深さを印象づける。
女性は目を背けたくなる凄惨な性暴力シーンの後、
リスベットの表情ははっきり伺えない。
ただ、背中のドラゴン・タトゥーが震える。
やはりスパイキーな格好をしていても、
弱い女の部分を吐露するのかと思いきや、
無表情に日々を過ごし、全てが整った時、
レイプ男に強烈な罰を与えるのだ。
これが、かなりサディスティック。
しかし、そこにはリスベット流の原理が一本貫かれている。
同じように、彼女が選ぶ仕事、言動、生き方には、
常に彼女流の原理が存在するのだ。
この芯の強さに、一瞬で彼女の虜となる。
闇の部分と芯の強さをもったダーク・ヒロインは、確かに今までもいた。
信念の元に復讐劇を果たす「キャットウーマン」(‘04) や
「キル・ビル」(’03,’04) がそのタイプかもしれない。
しかし、マーラは彼女たちほど女として出来上がっていない。
風貌からも判る通り、青白い顔にガリガリの体、
一見少年かと見まがうほど華奢で、タフなダーク・ヒロインではない。
では、中性的な魅力の備わったダーク・ヒロインと比べるとどうか。
浮かぶのは、リュック・ベッソン監督の「ニキータ」(’90) と
「レオン」(’94) だろうか。
しかしマーラは、ニキータのように感情をあらわにしない。
年齢的な違いもあるが、「レオン」のマチルダほど少女を前面に出さない。

リスベットは、とにかく無表情なのだ。
そして思慮深い。
中性的でありながら、女性としての欲望は押さえない。
想像を越える狂気を秘め、つかみ所がないようだが、
ラストシーンの彼女を観ると、その健気さに思わず愛おしくなる。
もちろん、相変わらずの無表情なのだが、
しぐさで彼女の感情が読み取れる。
映画は、40年前の少女失踪から連続猟奇殺人事件解明へと話が進むが、
途中からほとんどリスベットの言動を追っているような感覚になり、
このラストでトドメを刺される。
なるほど、だから「ドラゴン・タトゥーの女」というタイトルになるのだと思い知る。
口数も少なく、アップの表情も少ないのに、
これほどの存在感を示したリスベット役のルーニー・マーラ。
初のメジャー作品主演で、
いきなりゴールデン・グローブ賞主演女優賞候補になるのも頷ける。
スウェーデン版とハリウッド版、両方を観た批評家は口を揃えて言う。
「スウェーデン版リスベットのノオミ・ラパスは最高だった。
そして、マーラのリスベットはもっといい」と。
デヴィッド・フィンチャー、ダニエル・クレイグという、
世界的なカリスマ監督と演技派俳優を従えてなお、
賞賛を浴びる時点で、
マーラのリスベットがいかにズバ抜けていたかがわかる。(工藤静佳)

【映画コラム】「ドラゴン・タトゥーの女」デヴィッド・フィンチャーver.

aka. The Girl with the Dragon Tattoo

『ドラゴン・タトゥーの女』―デヴィッド・フィンチャー印の

卓越した凶暴性と才気の結晶をストレートで楽しめ!

圧倒的な映像量と疾走感。
『ドラゴン・タトゥーの女』は、
”デヴィッド・フィンチャーの映画”として
映画史に記録される事になるだろう。
これほどフィンチャーの演出力と表現力をストレートに出した作品は久しぶりだし、
主演の2人、音楽、シーン構成と編集に至るまで、全てが相乗効果を成した傑作だからだ。
まずは冒頭のツェッペリンでやられる。
ミュージックビデオ時代のフィンチャーを思い出す、
「移民の歌」の叫び声に合わせたメタリックな映像で、
観客は直ぐさまフィンチャー・ワールドへ飛び込む。
そして慌ただしく始まる雑誌ジャーナリスト・ミカエルの敗訴シーン。
さらに、少女失踪事件解明の依頼人が抱える謎、
バイクを飛ばす天才ハッカー・リスベットの登場と、
3つの事象が平行して描かれ、息つく暇を与えない。
話が進むにつれ画面を占めるのは、
猟奇的な連続殺人事件関連の映像となり、
凶暴なフィンチャー演出が踊りだすのだ。
過去のフィンチャー作品で、凶暴性が連想されるのは、
『セブン』(’95)や『ファイト・クラブ』(’99)、
そして『ゾディアック』(’07)だ。
ここ数年は、『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(’08)、
『ソーシャル・ネットワーク』(’10)と、
内面の凶暴性や拳をあげない社会の暴力性を描く作品が続いたせいか、
久々にフィンチャー監督のストレートパンチをくらった気分になる。
しかしここで特筆すべきは、
『ドラゴン・タトゥーの女』がスウェーデン発ベストセラー小説の映画化であり、
既に母国で映像化された後の製作だった点である。
映画は、同じ原作でも、
監督による解釈が違うだけで全くの新作になる代物だ。
過去ハリウッドが、英語圏以外の原作、
あるいはオリジナルがあるものを再映像化した作品で、
母国語版を越えて映画史に残る傑作と位置づけられるものは、実は少ない。
例えば、ドイツの巨匠ヴィム・ヴェンダース監督の『ベルリン・天使の詩』(’87)を、
ハリウッドが英語版『シティ・オブ・エンジェル』(’88)としてリメイクしたが、
オリジナルとは比べ物にならない評価に終わっている。
最近では、今回同様スウェーデンが舞台の作品『ぼくのエリ200歳の少女』(’08)を、
アメリカ人監督マット・リーヴスが『モールス』(’10)として英語化したことが話題になったが、
これも北欧がもつ圧倒的な雪の閉塞感には及ばなかった。
原作国の空気感や匂いというものは、
どうしてもハリウッド版では薄れてしまうし、
総じて作品の魅力までも下げてしまう。
今回『ドラゴン・タトゥーの女』でフィンチャー監督は、
英語化であっても、舞台をスウェーデンのままにし、
登場人物の名前や名称など全て原作通りにした。
過去の例を見る限り、それは一種の賭けだし、
生粋のアメリカ人であるフィンチャー監督が、
スウェーデンの空気感を取り込んだ表現ができるのか、
不安視したのが正直なところだ。
しかし監督は、原作のもつスウェーデン色をカバーして余りある、
フィンチャー感とでも言うべき、
独特のカラーとテンポ、音のスパイスで別格の空気感を作り上げた。

一例をあげてみよう。
まず事件の舞台となるスウェーデンの孤島。
そこには古びた館と、やたらモダンな近代住居が対照的に登場する。
近代住居では、すきま風が得体の知れない獣の声のように響く。
あるいは、40年間未解決の事件を象徴する押し花の額縁が並ぶシーン。
直前までダニエル・クレイグ演じるミカエルの表情で引っぱり、
壁一面の押し花を圧迫感と共に一気に引き絵で見せる。
ルーニー・マーラ扮するリスベットは、
タトゥーを印象づけるバックショットを多用し、
前半は謎めいた女を貫き、
後半はバックショットそのものが彼女の感情を表す描写となっていく。
登場人物それぞれの、人と会話する時の距離感を確実に変える。etc…
これらは全てスウェーデン版にはない、フィンチャーの傑出した演出によるものだ。
このたぐいのフィンチャー的映像と編集が、158分全てを埋め尽くしている。
それほど、フィンチャー臭が強烈な映画に仕上っているのだ。
もちろん少数意見として、スウェーデン版に僅かながらの軍配をあげたいとする声もある。
しかし筆者が見た限り、そしてヨーロッパを含む大勢の批評家のコメントを総合しても、
フィンチャーの演出に勝る箇所は、スウェーデン版には見当たらない。
冒頭で、デヴィッド・フィンチャーの“代表作”ではなく
“映画”と記したのは、この理由からだ。
『ドラゴン・タトゥーの女』映画版=(イコール)、フィンチャー監督であり、
ダニエル・クレイグ、ルーニー・マーラの顔が即浮かぶと言う事だ。(工藤静佳)

【海外ドラマレビュー】「ブレイキング・バッド」

aka. Breaking Bad

『ブレイキング・バッド』 全米No.1高評価ドラマは全米イチの問題作

今、全米で最も高い評価を獲ているドラマは何か。
それは、4年連続エミー賞に輝く『MAD MEN』ではなく、
視聴率がいつも上位の『NCIS』でもない。
4シーズン目に突入した犯罪スリル『ブレイキング・バッド』だ。
しかしこのドラマ、放送開始直後から、かなりの問題作として注目されていた。

平凡にコツコツと暮らし、
50歳の誕生日を迎えた高校の化学教師ウォルター・ホワイト。
ある日、末期の肺がんと宣告されたのを機に、
なんと、家族にお金を残したいと、
化学の知識を生かしてドラッグ(覚せい剤)・ビジネスに手を染める。
しかも相棒は元教え子。
このイントロだけでもかなりショッキングなのだが、
2話、3話と進むにつれ、
主人公ウォルターは、さらなる泥沼にはまっていき、
相当なバイオレンスにも遭遇していく。
さぞや暗く、重苦しいドラマなのかと思いきや、
所々にシニカルな笑いがあり、
なんとも言えないシュール感が漂う。
最初は、犯罪が似合わない、
というより無理な、情けないおじさんに見えたウォルターが、
シーズン2ぐらいからは妙な貫禄が出てきて、
哀愁漂う渋いオヤジにすら見えてくる。
そんな主人公のアンチ・ヒーロー度と比例して、
評価はシーズンごとに高まった。
エンターテインメントの総合批評サイト・メタクリティックでは、
2008年の放送開始時、74だった評価値が、
シーズン2で85に、
3では89とジリジリ上がり、
2011年放送のシーズン4で、ついに96というTopポイントに到達した。
また、すでに2010年の段階で、
米・TIME誌の発表したその年のベストTV シリーズでは、
『MAD MEN』を押さえて1位に輝いている。
間違いなく今年のベストドラマにも選ばれるだろう。
人間、将来を悲観すると、ワルい方へ道を踏み外すことがある。
しかし一旦踏み込んでしまうと、もはや後戻りできない。
生真面目だったウォルターの住む世界も、
どんどん犯罪臭の強いものへと移っていく。
見ている方は、「おじさん、もう止めなよ」という反応から、
「次はどんな危ないヤマを渡るんだ?」という興味へと変わっていく。
そうなればもう『ブレイキング・バッド』の面白さにハマった証拠。
ウォルターの生き様を見ずにはいられない心境にさせる、
キャラクターとストーリー展開、そして演出。
全てにおいてクオリティの高いドラマだ。(工藤静佳)

【海外ドラマレビュー】「Life on Mars」「Ashes to Ashes」

aka. Life on Mars, Ashes to Ashes

見るとハマる! 超アナログ捜査でもスタイリッシュな英ドラマ!!

『時空刑事1973 Life on Mars』&『キケンな女刑事~バック・トゥ・80’s〜/ Ashes to Ashes』

今や犯罪捜査ドラマと言えば、最先端技術を駆使する科学捜査モノが全盛だ。
その中にあって、アナログ捜査ながらSFサスペンスの要素をもつという秀逸な刑事ドラマがある。
英ドラマ『時空刑事1973 LIFE ON MARS』と、
そのスピンオフ『キケンな女刑事~バック・トゥ・80’s~ / Ashes to Ashes』だ。
アメリカ制作とは一味違うスタイリッシュな映像と演出、
70年代・80年代の空気感とファッションが楽しめる。

どちらもイギリスBBC制作で、
2006年から2010年にかけて放送されたヒットドラマ。
06年に『時空刑事~』(以下、Life on Mars) が放送されるや否や、
英国のみならず欧米でも人気を獲得し、
国際エミー賞のベストドラマ・シリーズに輝いた。
アメリカではABCがリメイクし、
NY版『ニューヨーク1973/ LIFE ON MARS』を制作。
さらにスペインでもリメイク版が制作された。
日本では少々遅れて登場したものの、
英ドラマ好きの間ではコアなファンを持つ傑作だ。
ストーリーは、主人公のタイムスリップにまつわる謎究明と、
過去の世界での犯罪捜査という2重構造。
『Life on Mars』は、
2006年の現代で連続殺人犯を追っている刑事サムが、
交通事故に遭う所から始まる。
サムが目覚めると、
そこはデヴィッド・ボウイの「Life On Mars?」が流れる1973年だった。
昏睡状態にいるのか、本当にタイムスリップしたのか? 
真相はわからぬままサムは、1973年の世界で刑事として犯罪捜査にあたっていくのだ。
この『Life on Mars』の熱狂的なヒットを受け、
本国BBCで制作されたのが、
スピンオフ・ドラマ『キケンな女刑事~バック・トゥ・80’s~ / Ashes to Ashes 』だ。
原題となっているのは、
前作と同じくデヴィッド・ボウイの1980年発表曲「Ashes to Ashes」である。
今度は2008年にいた女性刑事アレックスが銃弾に倒れた後、
目覚めると1981年へタイムスリップしていたというもの。
彼女は、過去に自分と同じような経験をした刑事サムの存在を知っていて、
現代へ戻るべく捜査を開始するのだ。
この『Ashes to Ashes』のファイナルで、
『Life on Mars』のサムのその後についても明かされる。
70年代当時、科学捜査はまだまだ発達していないため、
サムにとっては全てが超アナログで別世界。
指紋はデッチあげようとするし、
DNA検査なんて現場はハナから信じていない。
自白させるためなら犯人をボコボコにするのだ。
そう聞くと、ぶっきらぼうで暑苦しい刑事ドラマを想像しがちだが、そこは英ドラマ。
少し前の時代をスタイリッシュに描いている。
当時よく走っていたフォード・コーティナや真っ赤なアウディ、
白い革ジャンに白ブーツ、肩パットの入ったジャケット、そして音楽と、
70・80年代のイギリス・ファッションや風景が絶妙にかっこよい。
シリーズを通して最後には、「果たして現代は、よりよい世界になったのだろうか?」
という苦いテーマも透けて見えるあたり、
SF作品に深みをもたせるイギリスならではの思想も伺える。
ただ1点、残念なのはその日本語タイトル。
確かに、デヴィッド・ボウイの曲名そのままでは、
日本で刑事ドラマだと認識するのは難しいだろう。
しかし原題のほうが、両ドラマのもつスタイリッシュさに合っているし、
内容とのリンクもあるのだが…。(工藤静佳)