【映画コラム】「ベン・イズ・バック」

aka. Ben is Back 2018

ジュリア・ロバーツ渾身の一撃

「母として・妻として・人間として」強さとは何かを考えてみる

母親は、子供にとって完全無欠の存在であろうとする。
しかし、子供の全てを包める訳ではないし、ましてや完璧にもなれない。
切ない存在だ。
子供は子供で、時期が来たら1人の人間として生きる道を進まねばならない。
孤独な生き物である。
母親も、子供も、もっと言えば、人間とは、それほど切なく、独りぼっちなのだろうか。
ジュリア・ロバーツ主演の映画『ベン・イズ・バック』は、
そんな答えの出ない葛藤を、たった1日の出来事の中に凝縮し、私たちに提示して見せてくれる。
郊外の小さな街に住むバーンズ一家は、穏やかなクリスマス・イブを迎えていた。
そこへ、長男のベンが突如家に戻ってくる。
薬物依存症の施設に入っているベンが、急に戻ってきたことに、
事情の分からない異母弟妹ははしゃいでいるが、継父は訝しみ、妹は煙たがる。
ただ一人、母親のホリーだけは、両手を広げて息子を迎え入れるのだった。
昼間、ホリーと買い物に出かけたベンは、昔の薬物依存症の悪友たちに姿を見られてしまう。
街にベンが戻っていることは、容易に知れ渡ってしまった。
イブの夜、ベンを含めたバーンズ家が教会から戻ると、家の中は荒らされ、愛犬が連れ去れていた。
事件が起きたのは自分のせいだと、ベンは愛犬を探しに家を飛び出す。
ベンを一人にできないと、ホリーが後を追う。
母と息子は、愛犬を探す道すがら、ベンが薬物に染まっていった道のりを辿ることになるのだった。

ホリーとベンとの会話で、印象深いシーンがある。
薬物を使用するとき、どんな気持ちだったのかと、ホリーが尋ねるのだ。
するとベンは、『安心できて、、、愛されているのが実感できて、、、幸せな気分になれる。お母さんよりも』とボソッと答える。
面と向かって、薬物は、母の愛を超えると言うのだ。
これほど、母親にとって悲痛な告白があるだろうか。
それを聞いてもホリーは、息子の気持ちをそのまま受け止めようと、平然と会話を続ける。

一方ベンは、そんな母の愛に値しない人間なのだと自分を蔑み、1人で、愛犬を連れ去ったであろう悪友の元へ向かう。
ベンは、愛犬を無事連れ戻せるのか、再び薬物に溺れることはないのか。
スリラーともとれる緊張感と共に物語は進む。
そんな中でも、やはり私が気がかりでならないのは、ホリーの強気だ。
夜中にベンとはぐれてしまった時、ホリーは、夫や娘に心配をかけまいと、
携帯の電話口で『私とベンは大丈夫。じきに帰るから』と、気丈に振る舞う。
「強い母でいよう」と、必死に心をつないでいるように、私には見えた。
しかし、そんなホリーが、結局ベンを見つけられず、
夜明けと共に、夫に電話をかけ『どうしていいのか分からない』と、初めて弱音を吐くシーンがある。
私は、そのホリーの行動にとても惹かれた。
それまで頑なに強がっていたホリーが、心から弱音を吐くのだ。
夫はホリーに、『今、どこにいるんだ。すぐそこへ行くから』とホリーを慰める。
ホリーは1人ではなかった。
夫も、娘も、どうしようもない長男だとしても、
やはり家族として愛し、助けたいという思いは、ホリーと一緒だったのだ。
薬物依存症の人達のミーティング・シーンがあったり、
薬物の過剰摂取で亡くなったベンの元恋人の家族の末路を描いていたり、
この映画が浮き彫りにする薬物による本人や、周囲の人間の苦悩を投げかけているのは十分すぎるほど伝わる。
しかしどうかこの作品を、まずは何の先入観も、設定の社会的な背景も抜きで見て欲しい。
純粋な母子の、自分探しの一夜の旅と、見届けて欲しい。
親として、子供として、あるいは、女として、1人の人間として、どの立場でもいい、
自分は孤独な生き物なのか、周りの人間は自分をどれほど愛しているのかと、
見終わった時に、もう一度問うてみて欲しい。
少なくとも私は、ホリーが、最終的に夫にSOSを送れたことにホッとした。
ホリーは、決して1人ではない。
そして、ベンも、社会から疎外されるべき人間ではないのだ。
薬物依存症であったとして、1日、1日を薬物なしで送ることや、
周囲の家族の愛を感じられたなら、やり直せる可能性は存分にある。

クリスマスの朝、最終的にベンはホリーの元に戻ってくることができるのかどうか、
映画を観て、各々が判断してほしいところだ。
私は、ホリー自身が、家族の愛と、家族に頼る自分の弱さに気づいた時、
ベンもまた、家族の愛に満たされるのだと信じたい。

【映画コラム】「ジョーカー」

aka. JOKER 2019

笑えぬ闇(ダークサイド)の誕生を目撃せよ!

“ジョーカー”、アメコミ映画好きなら誰しも知るキャラクターである。
1939年に誕生したアメリカDCコミックスのスーパー・ヒーロー、バットマン。
そこに登場する、宿敵「スーパーヴィラン(=超悪役または犯罪者)」がジョーカーだ。
過去、何人もの俳優がジョーカーを演じ、名だたる監督たちがジョーカーを描いてきた。
一体、そんな有名なキャラクターをどう料理しようというのか。
日本公開前からワクワクしながらその時を待っていた。
そのワクワクは、映画が始まるや否や背筋ゾクゾクに変わった。
後にジョーカーとなるアーサーの止まらぬ笑いが、観るものを一気に狂気ゾーンへと引き込んだからだ。

アーサーは、貧しい道化師だ。
ピエロに扮し商店のセール看板などを持ち、わずかな給料を頂く生活。
家では、病に犯され精神に異常をきたす老母と2人で暮らしている。
貧しいのはアーサーたちだけではない。
ゴッサムシティという街全体が疲弊し、ゴミの山とネズミとストリートギャングで溢れかえっている。
富めるものは一方的に富み、貧しいものは底辺の暮らしにむせかえる。
しかもアーサーは、幼児期に脳を損傷し、緊張すると笑いが止まらなくなるという持病を持っていた。
それでも、いつかスタンダップコメディアンになるのだという夢だけは捨てずに。
この導入部分を見ただけでも、とてもアメコミの世界の物語とは思えない。
そう、この映画は、アメコミ映画という枠で観てはいけない作品だ。
スーパー・ヒーローなど出てこない、一人の貧しい男の感情と内面を追った、非常に個人的なヒューマンドラマだ。
映画は、アーサーの日常を淡々と語り続ける。
それは、この上なく悲劇的だ。
日々をただ懸命に生きているだけなのに、アーサーの身には、これでもかと不幸な事件が降りかかる。
街の悪ガキたちにからかわれ、袋叩きにあったり、
仲間から護身にと渡された拳銃をうっかり小児病棟での仕事中に落っことし、ピエロ派遣プロダクションをクビになったり。
そんなある日アーサーは、地下鉄の中で絡まれ、ついにエリートビジネスマンたちを銃で殺してしまうのだ。
ジョーカーというキャラクターを知るものは、
アーサーがいつジョーカーへと変貌するのか、その瞬間を見届けようとするが、
いつ、どこで、という明確なイベントはない。
精神的に追い詰められていく過程で、アーサーは自分の中にあった闇をどんどん増幅させていったに過ぎない。

アーサーの感情がダークサイドへと迷い込む一方、
街では、富めるものを抹殺したピエロ姿の“ビジランテ”(=自警団的な正義の執行者)として犯人を讃え、
貧困層は皆ピエロの仮面やメイクを施し、デモや暴動を起こすようになる。
さらに、生い立ちの不幸までもがアーサーを引きずり落とす。
実母と信じていたが、実は養子だったとか、自分の脳の損傷は、母のかつての恋人による虐待が原因だったとか。
そして彼は気づくのだ。
「人生はずっと悲劇だと思っていた、でも、本当は喜劇だった」と。

そんなアーサーに一本の電話が入る。
人気テレビ番組のゲストに出て欲しいというのだ。
かつてアーサーが出演したナイトクラブでの映像をたまたま観た人気司会者のマレーが、
自分のトークショーに呼んで、観客からひと笑い取ろうと目論んだのだ。
いよいよ出演の日、アーサーは、家からピエロのメイクでダンスをしながら劇場へ向かう。
そしてマレーに言う。
自分のことを「ジョーカーと紹介してくれ」。
こうしてアーサーの一世一代の舞台が幕をあける。
その結末は…ぜひ映画館で味わって欲しいが、その時、アーサーは確かにもう99%ジョーカーになっていたと思う。
1%ほどの人間味を残したジョーカーことアーサーは、ピエロたちが街で暴れる様を虚ろな眼差しで見つめる。
その時の笑みこそが、アーサーの真の微笑みだったのではないだろうか。
やがて、興奮する民衆によって崇められた時、アーサーは車のボンネットで踊る。
ジョーカーの誕生である。
重い。
あまりにも重いジョーカーの起源。
この作品はしかし、DCコミックスのキャラクターの派生であることを忘れてはならない。
ところどころで、バットマンと言う存在の影がチラつくからだ。
ゴッサムシティと言う架空の街の設定はもちろん、
貧困に喘ぐアーサーが、もしかしたら実父かもと一時的に思い込むのは、
街随一の富豪で市長候補のトーマス・ウェイン。
誰あろう、後にバットマンとなるブルース少年の父親だ。
さらに、ブルース少年がバットマンへと変貌するきっかけとなる、両親が暴徒によって射殺されるという事件、
それがジョーカー誕生と時を同じくして起きる。
一人の男の心を巣食った闇が暴発した時、街全体が闇に包まれ、
一人の少年に闇を宿し、さらなる悲劇を生むことになる。
ただ、一方は、ビジランテと呼ばれるも、その後数々の殺人や罪を犯すジョーカーとなり、
もう一方は、本当の意味で影の正義のヒーロー、バットマンへと成長するのだった。
正直に言えば、過去のジョーカー役の中で惹かれたのは、
1989年の「バットマン」(ティム・バートン監督)のジャック・ニコルソンと、
2008年の「ダークナイト」(クリストファー・ノーラン監督)でのヒース・レジャーだった。
今回のジョーカーは、ジョーカーというより、アーサーとしての側面があまりにも強調されていて、
どうもバットマンの宿敵・悪者になる人物として見ることができない。
それほどホアキン・フェニックス演じるアーサーの笑いが強烈で、孤独と狂気に満ちていて、不気味だからだ。
これまでのジョーカーとは、全く違ったキャラクターと言っていいだろう。
また、こんな闇だらけでシリアスなジョーカーを作り上げたのが、トッド・フィリップス監督というのにも最初驚いた。
フィリップス監督は、最低最悪な二日酔いの男たちが、
酔った勢いでとんでもない失態を繰り返すドタバタコメディ「ハングオーバー」3部作で有名になった人物だったからだ。
けれど、よくよく考えてみれば、「ハングオーバー」に出てくる登場人物たちも、相当狂気MAXな言動を繰り返す。
それは大爆笑を誘うが、こちらの狂気MAXは、ただただ背筋が凍って悲しくなるという振れ幅の違いだけなのかもしれない。

クリストファー・ノーラン監督が作ったバットマンシリーズ「ダークナイト・トリロジー」(’05,’08,’12)の中の
「ダークナイト」(’08)で、ジョーカーとバットマンは壮絶な戦いをする。
その際、ジョーカーはバットマンにこう告げるのだ。
自分たちは似た者同士の「フリークス(怪物)」だ。
そして囁く。
「自分(=ジョーカー)を殺してみろ」と。
今回のトッド・フィリップス監督の「ジョーカー」は、
やがてバットマンと対決するジョーカーの物語の、序章のそのまた序章、そんな気がする。
できれば、フィリップス監督版のジョーカーが登場する映画バットマンを是非撮っていただきたいと、
バットマンファンは思う。

【映画コラム】「Black & White」

aka.Black & White

マックG監督の痛快アクション・ラブコメディ『Black & White』

公開直前まで良い子は見ちゃダメ!?なR指定だった!

クリス・パイン、トム・ハーディのイケメン俳優2人がCIAの諜報員に扮し、
1人の女性を巡って職権乱用のスパイ合戦を繰り広げる、マックG監督の新作『Black & White/ブラック&ホワイト』。
終始キレのあるアクションとウィットに富んだセリフの掛け合いで、ラストはスカッとする作品なのだが、
全米では、公開直前までR指定(17歳以下は保護者の同伴が必要)か否かでちょっとした話題になっていた。
たまたま好きになった彼女がドンかぶりしてしまったCIAの凄腕コンビFDRとタック。
ターゲットの女性ローレンを口説き落とすのはどちらか、
最高の相棒が最強の恋敵となって前面戦争をおっぱじめる。
CIAの精鋭部下まで巻き込み傍受に偵察、
最新鋭の武器を使ってデートの横やりを遂行。
ローレンが選ぶのはFDRかタックか、
エスカレートするスパイ合戦の裏では、
2人への復讐を目論む国際的犯罪組織の男がヒタヒタと迫っていた。
映画『チャーリーズ・エンジェル』を手がけたマックG監督らしく、
とにかくスピーディーで快活、
最高にカッコ良くて面白いアクション・ラブコメディに仕上がっている。
この作品が全米で公開されたのは2012年2月。
実は公開直前になっても、TV広告に「まだレイティングされていません」と、
おことわりが入っていたほど、R指定になるかどうかで揺れていたのだ。
アクション映画なので派手にドンパチするシーンは豊富にあり迫力満点だが、
決して眉をひそめたくなるような暴力や破壊ではない。
一体何がMPAA (アメリカ映画協会)の基準に触れたのか。
どうやら一番の問題は「some sexual content 」、
卑猥な言葉や性的な描写が成人向けと捉えられたらしい。
確かに、際どい言葉や表現は結構出てくる。
特にリース・ウィザースプーン演じるローレンの親友は強烈。
一児の母の設定でSEX万歳主義。
恋人を決めかねるローレンには、
「私が両方と寝て、良かった方を推薦する」とアドバイス。
お子ちゃま達のいる部屋で、大声で危ない発言をしまくり、
回りの大人が思わず自分の子供の耳をふさぐ、なんてシーンもあった。
結局のところ、このエロいお母さんの卑猥なジョークの一部がカットされ、
『Black & White』のレイティングはPG-13 (保護者の注意は必要だが、視聴・入場制限なし)に落ち着いた。
決着がついたのが、公開わずか2週間ちょっと前という慌ただしさだった。
この結果は様々な映画情報サイトで伝えられ、
「スパイ対スパイ映画のレイティング戦争、ついに終結」と同時に、
「喜べ! キッズ」のコメントが踊った。
というのも、やはり「それほど性的表現に問題があるか?」というのが大方の見解だったからだ。
今となっては、どんな卑猥なジョークだったのか解らないが、
アクションと同じくらいこの作品を楽しくしているのが登場人物の会話の妙だったので、
カットされてしまったのは少し残念。
しかしもちろん、ジョークの1つが減っても、
それを上回る圧倒的な本気の悪ふざけとユーモアがあるので問題ない。
そしてふたを開けてみれば、10代の観客からは好評のコメントが多数あがっている。
特に、「子供達へ価値ある情報を」がモットーの米メディアレビュー団体「Common Sense Media」の
HPに掲載されているティーンエージャーの評価は、軒並み4つ星か5つ星。
「まぁ、ちょっとsex talkはあるけど面白い!」と大絶賛。
ノンストップのアクションとユーモアを、大人も子供も楽しめること間違いなしだ。

【映画コラム】「ウォール・ストリート」

aka.Wall Street: Money Never Sleeps

ウォール・ストリート』やっぱり“欲は善”!?

 オリバー・ストーン監督が23年後に出した答えとは?

「“欲”は善です。“欲”は正しい。…“欲”こそ、株式会社USAを立て直す力です」
これは、映画『ウォール街』の中で、
マイケル・ダグラス扮する金融界のドンことゴードン・ゲッコーが、
株主総会で言い放ったスピーチの一節だ。
あれから23年。
『ウォール街』の続編として、
“欲は善”を追求したその後を描いた『ウォール・ストリート』が公開された。
前作では、資本主義社会の暗部を観客に突きつけたオリバー・ストーン監督。
新作で突きつけたのは、心の暗部だ。
1987年に公開された『ウォール街』は、
企業買収とホワイトカラーの犯罪が横行した80年代のウォール街を舞台に、
若手証券マンとカリスマ投資家ゲッコーとの、欲望と駆け引きを描いた作品だ。
オリバー・ストーン監督の代表作になると同時に、
冷酷無比な投資家ゲッコーを演じたマイケル・ダグラスにもオスカーをもたらした。
“Greed is good=欲は善” というゲッコーの台詞は、
映画史のみならず、アメリカの資本主義崇拝を物語る名言として刻まれた。
当時、オリバー・ストーン監督はゲッコーを「悪の父」として描いた。
過剰な資本主義崇拝がモラルの欠如を招くと、
ゲッコーを通して印象づけたのだ。
ところが23年後のウォール街は、
ゲッコーなど取るに足らないほど、
欲は善という考えが肥大化していた。
モラルの欠如は金融界全体に広がり、
かつては社会の暗部だったものが、
もはや公然の欠点となっていた。
新作の中でも描かれた通り、
“欲は善”思想が暴走した結果が金融破綻だったとするならば、
“欲は善”を提唱した男はどうなったのか。
ゴードン・ゲッコーというキャラクターがあまりにも強烈だったため、
彼のその後に釘付けとなった人は多いと思う。
しかし正直、87年の『ウォール街』ほどのわかりやすい答えは出てこない。
描写されるのは、復活を目論むも、ぐらぐらと揺れるゲッコーの心だ。
改心して「良き父」になろうとしたのか、
したたかな投資家人生を送るのか。
どちらともとれる終わり方だ。
ラストシーンをどう解釈するかは観る人それぞれだが、
ひとつ言えるのは、オリバー・ストーン監督のスタンスや、
ウォール街の人の本質は変わらない、ということだろう。
「欲は、確かに正しい。生きる推進力になる。
ただし、モラル付きであればね」というものだ。
結局、人間の欲などモラル次第で善にもなるし、悪にもなる。
そして、人のモラル(=倫理観) ほど、あやふやなものはない。
やや複雑にみえるゲッコーのその後は、
欲望とモラルの天秤のバランスをとるのがいかに難しく、
脆いかを物語っているように映る。
見る側は、欲望の為に自己のモラルをどこまで危険に曝すことができるのかを
自問自答することになる。
“欲は善なのか?”の真の答えは、
天秤を手にした人にしかわからないもののようだ。

【映画コラム】「ハンナ」

aka.Hanna

『ハンナ』魅惑の殺し屋に成長したシアーシャ・ローナンに賞賛と憂慮のため息

映画『つぐない』(07) で弱冠13才にしてオスカー候補となったシアーシャ・ローナン。
最新作『ハンナ』(11) では、16歳の暗殺者に扮し、激しいアクション・スリラーに挑んだ。
才能ある若手女優の新作に、全米の批評家の間では、「魅力全開」との声の一方で、
「作品に難あり」という、相反するため息が寄せられている。

フィンランドの森の奥、
元CIAの父親と2人きりで、プロの暗殺者になるべく訓練を受ける16歳の少女ハンナ。
ある日ハンナは、「用意はできている」と森を後にし、
一人CIAのエージェントへと乗り込んでいく。
ハンナを狙う刺客との駆け引き。
逃走劇の最中に触れたある家族との一瞬のぬくもり。
そしてCIAの凄腕女性捜査官マリッサとの死闘と、
作品全編を通して主演のシアーシャ・ローナンが走り、闘う映画『ハンナ』。
バックに流れるケミカル・ブラザーズのビッグ・ビートが疾走感を加速させ、112分を駆け抜ける。

メガホンをとったのは、ジョー・ライト監督。
ライト監督の作品は、『プライドと偏見』(05) や、
シアーシャを一躍注目の的にした『つぐない』(07) など、
小説原作の落ち着いた時代物というイメージがあったため、
テンポの早いアクション連続の『ハンナ』は新鮮で楽しめた。
無敵の殺し屋に育て上げられたハンナという少女を、
シアーシャは時にサイボーグのように冷酷に、
時に16歳のあどけなさを見せながら巧みに演じている。
「この映画のフックは何と言っても若き才能シアーシャの魅力」と、
New York Magazineでは賛辞の論評を載せている。
その他も概ねポジティブ評価だ。
しかし、シアーシャの演技力には全員納得なのに、
「作品自体はパーフェクトじゃない」と難をつけるコメントが目立つ。
その理由は、微妙に不安定なハンナのキャラクターや場面設定にあるようだ。
Detroit Newsのレビューでは、
「完璧な殺し屋であるはずのハンナが、電化製品に怯えるのはナゼだ」と違和感を伝えた。
Los Angeles Timesも、
「ファンタスティックな世界にしたいのか、超現実的にしたいのか理解に苦しむ」と指摘している。
実際、フィンランドから始まった物語は、
モロッコ、スペイン、ベルリンと場所を移すのだが、唐突感は否めない。
最終的には人の気配ない、荒廃した遊園地での決闘となるため、
現代なのか近未来なのか不確かに映る。
しかしハンナがインターネットカフェに立ち寄る(電化製品に怯えていたのに?) シーンがあるので、
きっとそうかけ離れた世界ではないと想像できる…など、
パーフェクトじゃないと突きたくなる心境もわからなくはない。
将来有望なシアーシャだけに、
そんな矛盾を演じさせては勿体ない、という懸念が多いのだろうか。
かつて、『レオン』(94) のナタリー・ポートマンや、
『ニキータ』(90) のアンヌ・パリローが脚光を浴びたごとく、
「少女×殺し屋」ジャンルの作品にシアーシャ・ローナンがでるならもっと輝けただろう、
という欲張りな要求である気もする。
ハンナの愛読書がグリム童話であることや、
その物語を引用するシーンが随所に盛り込まれているため、
筆者としてはシュールな場面も、
ケミカル・ブラザーズの音楽との相乗効果で映画独自の世界観なのだと割り切れる。
そういったことも全部含めて、
『ハンナ』という作品をアクション・エンターテインメントに仕上げている
シアーシャ・ローナンとジョー・ライト監督は、才気みなぎる黄金コンビなのだと思う。

【映画コラム】「宇宙人ポール」

aka.Paul

『宇宙人ポール』僕らの欲しい要素満載の必笑SFコメディ!

ウンチク無しで笑ってくれ。
その一言につきるような痛快エイリアン遭遇コメディ『宇宙人ポール』。
異論はあるだろうが、間違いなくSFコメディの傑作である。
なぜなら、パロディ落ちに終始するのではなく、
独自の世界観を確立しているからだ。
そこには、イギリス的な笑いとアメリカ的な笑いを融合した、
ハイブリッドな爆笑ネタがふんだんに盛り込まれている。
SFオタクのイギリス人グレアムとクライヴは、
憧れだったアメリカのコミコンに参加すべくはるばるやってきた。
お目当てのSF作家にサインをもらい、
キャンピングカーでアメリカ西部のUFOスポットを巡る旅にでる。
すると、ネバタ州のエリア51付近で、
2人はなんと本物の宇宙人に遭遇する。
ポールと名乗るその宇宙人は、英語ペラペラで、
“ハッパ” を楽しみ、やたら陽気。
そして2人に、仲間の元へ戻るため、
自分を乗せて北上して欲しいと頼むのだった。
主演と脚本を担当したのは、サイモン・ペッグとニック・フロスト。
この2人、現代イギリス・コメディ界のゴールデンコンビと言われている。
そもそもサイモンは、90年代半ばからイギリスのTVやラジオのシットコムに出演し、
コメディライター兼俳優として伸び盛りだった。
99年に、同じくイギリスのコメディ界で注目されていたエドガー・ライト監督と組んで作ったシットコム
『SPEACED 俺たちルームシェアリング』(’99-‘01) が大ヒットしてブレイク。
この時、サイモンの友人であり、役柄でも友人役として共演し、
一躍人気コメディ俳優となったのがニック・フロストだ。
その後、サイモンとニックは映画界へ進出。
ホラー映画の金字塔『ゾンビ』をパロディにした『ショーン・オブ・ザ・デッド』(’04 )や
、アクションコメディ『ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン! 』(‘07) を発表。
いずれも高評価と高収益を獲得した。
2つのヒット作以降、サイモンもニックも、
イギリスはもとより、ハリウッドでも人気のコメディ俳優として頭角を現している。
そして今回、このイギリスのゴールデンコンビとタッグを組んだのが、
いわばアメリカのゴールデンコンビ。
ポールの声を担当したセス・ローゲンとグレッグ・モットーラ監督だ。
2人のヒット作といえば、セス・ローゲンが脚本と製作総指揮を担当し、
モットーラ監督がメガホンをとった『スーパーバッド 童貞ウォーズ』(’07) がある。
冴えないオタク仲間の3人が、パーティでの童貞卒業を目論むという、
実にアメリカらしいドタバタコメディだ。
『宇宙人ポール』は、こうした制作者の背景が実に有効的にブレンドされている。
まず、イギリス人のオタクがアメリカを訪れる、
という設定で全てのお膳立てが出来上がる。
異国でワクワクしている彼らが出会ったのは、
異文化の極みのような宇宙人ポールなのだが、
その中身は、60年間アメリカで過ごしてきた生粋のアメリカ人のような男。
セス・ローゲンがどこまでもアメリカ人らしいハイテンションな宇宙人を表現している。
彼らの会話には、イギリス人が考える「アメリカ人ってこうだよね」だったり、
「イギリスでは銃を使わないんだろう」といった、お互いのあるあるネタが飛び交うのだ。
『E.T.』や『未知との遭遇』など、あらゆるスピルバーグ作品と
SF巨編へのオマージュがてんこ盛りで、
ついにはシガニー・ウィーヴァーまで出演する。
『宇宙人ポール』には、SFでコメディを作るなら
入れて欲しいと思うポイントが際限なく投入されているが、
そこへさらに、イギリス的なブラックユーモアまで掛け合わされている。
これはもはや、単なるパロディの連続ではなく、
1つの笑いの形式を練り上げたと言えるだろう。
事実、支持率の高い批評家のレビューの中には、
「アメリカ人の監督によって、アメリカで作られた作品だが、
実にブリティッシュ・ユーモアに溢れている」とコメントしているものがあった。
もちろん、全ての批評家が『宇宙人ポール』を絶賛しているわけではない。
しかし、元ネタを知っていても知らなくても爆笑でき、
気付けばその映画独自の笑いにまで引き込まれている。
そこまでいけば、「パロディじゃないか。くだらない」
なんていう冷めた考えは起きないはずだ。
(工藤静佳)

【映画コラム】「ハングオーバー!! 2」

aka.The Hangover Part II, ハングオーバー!! 史上最悪の二日酔い、国境を越える

ハングオーバー! 2』は偉大なるマンネリか、

横柄な焼き直しか!?批評家と観客の評価が真っ向対立!!

コメディ映画として、史上最高の初動興収記録を打ち立てた
『ハングオーバー!! 史上最悪の二日酔い、国境を越える』。
昨年全世界でヒットした『ハングオーバー! 』のパート2だ。
しかし、ボックス・オフィスの功績とは裏腹に、
批評家たちからは、「続編というより焼き直し」など散々なコメントが並んでいる。
コメディ映画の記録を塗り替えたヒット作続編の評価は、どっちが本当なのだろうか!?
結婚式前夜、ラスベガスで男だけのバチュラー・パーティを楽しんだところ、翌朝とんでもない事態に。
行方不明になった花婿を探すと、泥酔の果てにしでかした数々の醜態が明らかになっていく。
シリーズ第1弾『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』は、
全米でコメディ映画史上最高の興収を記録し、
ゴールデングローブ賞/ミュージカル・コメディ部門の作品賞まで獲得した怪作だ。
第2弾の『—国境を越える』では、舞台をバンコクへ移し、
やはり結婚式前のバチュラー・パーティで、同じヘマをしてしまった男たちの、
さらにスケールアップしたドタバタが繰り広げられている。

とにかく始まりから終わりまで、
「悪夢再び」というフレーズがぴったりなシチュエーションが、
デジャヴーのように押し寄せる。
この、似たような展開とドタバタのスケールアップ具合が、
どうやら批評家の不評を買ったようだ。
5つ星中、最低の1つ星をつけた英・ガーディアン紙は、
「パート2は、ほとんどの要素をショット単位でリメイクしているにすぎない」と酷評。
米・バラエティ誌も、「前作をバンコク色でコピーし直したもの」と、“焼き直し”を強調した。
しかも、二日酔いの朝の衝撃的な出来事が、
パート1の時の「ウィットに富んだもの」から
「犯罪臭の強い残虐なもの」になり、悪趣味だというのだ。
一方、数少ない支持派の批評家には、
「ハングオーバー! が好きなら、パート2も好きなはずだ。
なぜなら同じ映画だから!」とのコメントがある。
この同じという言葉には、笑いの度合いや質が同等、
あるいはそれ以上という意味合いが含まれていて、
シリーズ第2弾として評価に値するというものだ。
しかし注目すべきは、一般の観客が、批評家とは真逆の反応を示している点だ。
公開直後、米の有名映画レビュー・サイト「Rotten Tomatoes」での批評家の支持率は、
わずか30%ほどだったのに対し、観客のそれはなんと90%以上。
この奇妙な現象にネットメディアでは、「『ハングオーバー! 2』はなぜ批評家に嫌われるのか」や、
「批評家と観客の乖離現象をどう見る」といった記事が書かれた。
中には、「空前のヒット作の第2弾なのだから、公開直後支持が上がるのは当然。
勝負は公開2、3週後から始まる」と分析したものがあった。

その観点から、どちらの評価が正しいのかを得るなら、
公開4週目まで興収5位内にランクインしていたことが一つの答えではないだろうか。
「Rotten Tomatoes」の一般評価も、
公開から2ヶ月経った7月下旬ですら未だ批評家の倍近い。
しかもR指定でありながら、やはりシリーズものの『パイレーツ・オブ・カリビアン 生命の泉』や
『カンフー・パンダ2』より上位に入っていたのだから、
『—国境を越える』が続編として観客から評価されているのは明らかだ。
マイク・タイソンが再登場する意味がないとか、
猿の扱いがどうとか、
笑えない理由を枚挙する批評家が多いが、
そもそもこの手の映画にモラルを求めるのが間違いだし、
マンネリズムも、この作品の笑いの大きな要素だと思う。
ここまできたら、似たようなシチュエーションで、
どこまで強烈な醜態に発展できるのか、
とことんシリーズを重ねて欲しくなる。(工藤静佳)

【映画コラム】「コンテイジョン」

aka.Contagion

後引く怖さの『コンテイジョン』、ソダーバーグ流の感染パニック映画

Contagionとは、直訳すれば接触感染。
そのタイトル通り、スティーブン・ソダーバーグ監督の映画『コンテイジョン』は、
致死率の高い未知のウイルスが、世界各地に広がりパニックに陥る様を描いている。
しかし、これまでの感染パニックものとはひと味違う怖さが後に残る。
例えば、エボラ出血熱に似たウイルスによる
パンデミックを題材にした作品『アウトブレイク』(’95) では、
とにかく感染したら最後、必ず死んでしまうという恐怖と、
ウイルスの宿主である一匹のサルにヒヤヒヤさせられた。
あるいは、感染すると凶暴になってしまうという
ウイルスが猛威を振るう世界を描いた『28日後… 』(’02) では、
ウイルスによって人間が人間でなくなってしまう恐ろしさと、
主人公が感染するか否かのサバイバルに戦慄を覚えた。
どちらも観客にとって、ウイルスの正体は“見えるもの”であり、
登場人物がどうやって発症源を突き止めるか、
ウイルスとどう戦うかといったことが軸となっていた。
これが、『コンテイジョン』の場合は、全く別の所に視点が置かれている。
もちろん、未知のウイルスの発症源を探ろうとするし、
ワクチンを開発しようともする。
しかし、ウイルスの正体よりもむしろ、
人間の恐怖心やエゴから何が生まれるか、に焦点が当たっている。
ソダーバーグ監督が描く感染パニックは、とにかく客観的なのだ。
誰かがヒーローになってウイルス撲滅に乗り出すということでもなく、
感染の恐怖の中をホラー映画ばりにサバイバルするという内容でもない。
医療関係者や政府は黙々と、
新種のウイルスが出た事に対し、
自分たちの仕事をこなそうとするし、
家族が発症してしまった者は、
ウイルスに戦いを挑むでもなく、
ひたすら感染を避けてワクチンを待ったりする。
発症から何日目か、という数字だけが不気味に増えていく。
起きている事は非日常なのに、
それをまるで日常の一コマかのように淡々と綴っているのだ。
主役級のキャストたちが演じるキャラクターの中で、
そんなソダーバーグ監督の立ち位置が一番よく見てとれるのが、
ジュード・ロウ演じるフリー・ジャーナリストだ。
ウイルスによる異変をいち早く察知しながら、
結局はそれを自分の商売の道具にし、
彼が発した独りよがりなネット情報によって人々はパニックに陥る。
偽の情報に翻弄されて命を落としていく人々を、
自分は完全なる防護服の中から冷静に見つめる。
果たして本当に恐ろしいのは、
ウイルス自体なのか、
それとも、未知の恐怖に遭遇した時の人間の心理なのか、
わからなくなるくらいだ。
つまり、『コンテイジョン』の中のウイルスは、
徹底的に“見えないもの”扱いなのだ。
ウイルスの抗体を見つけ、ワクチン製造には至るが、
正体がわかったところで、
感染者の触ったドアノブ、コップですら媒体となるのに、
どうやって防げと言うのか?
更に言えば、恐怖心を煽るデマやニセ情報が氾濫する中で、
一体何を信じればいいのか? 
ワクチンをいち早く手に入れる為なら、
何をしてもいいのか?
ウイルスが見えたとして、
人間の心理は見えない恐怖のまま残る。
それにしてもこの映画、見ていると、
途中から自分の手で顔を触るのが異様に怖くなる
。最後のクレジットで「フィクションです」と言われても、
つい手を洗いたくなる。
それほど強烈なイメージを刷り込む作品だ。(工藤静佳)

【映画コラム】「マネー・ボール」

aka. Moneyball

アメリカンドリーム抜き、敗北感が魅力のスポーツ映画『マネーボール』

ベースボール・ムービーはハリウッド・スポーツ映画のドル箱と言われている。
80年代半ばから90年代にかけて、メジャーリーガーを題材にした感動作が多数ヒットした。
そして今、ベースボール・ムービー最高傑作のひとつと賞賛されているのは、
選手ではなく、球団GMを主人公にした『マネーボール』だ。
メジャーリーグの内幕や非情さも垣間みる事のできる作品だが、
好評の所以は、これまでのスポーツ映画にはない、
共感できる人生観にあるのかもしれない。
この映画は敗北のシーンから始まる。
2001年、オークランド・アスレチックスは、
ニューヨーク・ヤンキーズに敗れリーグ優勝を逃す。
貧乏球団アスレチックスは、
スター選手を次々と他所に引き抜かれ、
弱小と化すしかない状況だった。
そこで、ブラッド・ピット扮するアスレチックスの若きGMビリー・ビーンは、
型破りな理論を実践し、球団を奇跡の常勝軍団へと導くのだ。
大抵のスポーツ映画なら、敗北から始まると、
その後ひたすら勝利へ突き進むとか、
主人公が挫折を乗り越え最終的には栄光を手にするといった展開になる。
紆余曲折があればあるほど、最後の勝利の瞬間が爽快でたまらない。
観客がスポーツ映画に求めるのは、
そういった何かしらの達成感ではないだろうか。
しかし、『マネーボール』の場合、その手の達成感は味わえない。
確かに、アスレチックスはリーグ史に残る20連勝を果たすが、
主人公のビリーはちっとも嬉しそうじゃない。
「最後の一勝がなければ意味がない」と黙り込むのだ。
『マネーボール』は、緊迫のゲームシーンよりも、
選手トレードの駆け引きよりも、
このブラッド・ピットの沈黙の方に引き込まれる。
そこが、これまでのベースボール映画とは違うところだ。
ビリーの沈黙から醸し出されるのは、
前人未到の20連勝をしてもなお、
満たされることのない敗北感だ。
それは、自分の人生に対する後悔。
主人公はかつて、将来を嘱望された選手でありながら、
プロ転向後は振るわず、人生を誤ったという悔いがある。
彼にとっての「最後の一勝」とは、
本当は優勝することではなく、
人生でのたった一つの挫折を乗り越えることなのではないだろうか。
ビリーの、過去に対する思いが繰り返し挿入されることからも、
そんな感情が読み取れる。
人生一発逆転といったアメリカンドリーム・ストーリーではないものの、
『マネーボール』が多くの人の支持を得たのは、
何をもって自分は勝ちと思えるのかわからない、
そういう現代人の心理とリンクしたからなのだと思う。
頑張れば報われるとか、
信じればどうにかなるとか、
そんな甘い世界などどこにもない。
それでも、いつかは自分の納得する勝利を手に入れたいと奮闘するビリーの人生観は、
野球を知らずとも共感できる。

ところで、人生の敗北感をどうすれば乗り越えられるのか、
主人公は終わりのない挑戦を続けるのだが、
映画では一つの答えが提示される。
それは、ビリーの娘が父の為に歌った曲だ。
レンカという歌手の「The Show」の替え歌で、
迷える人生だけど、「ショーを楽しもう」というフレーズを、
「パパ、野球を楽しんで」と歌うのだ。
人生をもっと楽しめばいい? 
そうできればどんなにいいだろうか、
主人公のやり切れなさを、
ブラッド・ピットが沈黙の演技で見事に表現している。(工藤静佳)