「たのむや、おっちゃん、たのむや…。まっ白な灰になるまでやらせてくれ、なんにもいわねえでよ…。」
矢吹丈は、試合を止めようと言い出した丹下段平に語った。
そしてまたリングへ向かったのだ。
忘れられない『明日のジョー』最終話。
ロンドンから帰国した私も、パンチを食らっては這い上がりの連続だった。
遅咲き人生。
また地平からのやり直し。
日本に戻ったところでサイコロの振り直しである。
世の中はリーマンショックでズタボロだった。
もう、銭を稼ぐぞ!の鼻息だけではどうにもならないほどに。
そして、自分1人の力では生活もままならない事があるんだと、ヒシヒシと思い知らされるのだった。
帰国後、程なく私は映画レビューや、インタビュー記事をwebで書く職にありつけた。
と言っても収入は雀の涙。否、T V局にいた頃から見れば蟻の糞。
御年37歳。正社員でT V局にいた友人たちは…。
比べるまい! 私は、私の選んだ道を歩むまでだ。
やっとモノ書きのスタート地点に立てたじゃないか。
しかも、ちゃんと勉強しなおした映画というジャンルで。
こっからやり直すんだ。そう意気込んだ。
蟻の糞だってチリツモじゃないか…と。
ところで、である。
仕事の収入減に加えて、私は、奥様としてもとっくに曲がり角を超えていたことに気づいてしまった。
お子ちゃま問題。
私たち夫婦は、いわゆる子作り適齢期(25歳~35歳)リミット時にロンドンにいた訳で。
2人してロンドンのパブでビールを浴びるほど飲んで騒いでいる間にまるっとこの適齢期を超えていたのだ。
「ここでお子ちゃま産まれたら二重国籍だねぇ~Hahaha」グビッって具合に。
2人して、どうする? と顔を突き合わせた結果、妊活することになった。
並行して私は蟻の糞の収入に耐えきれず、外資系含め、広告代理店やら映像制作会社なんかにまた逃げ込もうと就職活動をしてしまった。(もうブギ過ぎる!! 成長がない!!)
が、どこも最終面接で落とされた。
理由はリーマンショック後というだけではない。
私自身の問題だ。
面接でのお決まりのやりとり…
「君、これまで自分の名前がゴールデン番組でクレジットされるような仕事してて、
これからスーパーの片隅で流れる天ぷら揚げてる映像とか撮って創れるの?
それぐらいの覚悟ある?」(勿論ない)
「はぁ。作れます」(一応笑み)みたいな…。
プロが見れば、私の顔色一つで分かるくらい、覚悟がないことは見え見えだったのだ。
私の心はもはや映像制作やT Vの世界から遠ざかっていた。
…にしても、あまりに最終面接でボコられるので、
映像会社や代理店といった所に履歴書を出すのはやめるようになった。
雀の涙、いや蟻の糞でもいい。
書き続けよう。
書き続ける。
そう決めた。(生計をお願いしたダーリンには申し訳ないのだが)
一方、妊活も難航を極めていた。
子宮内筋腫除去手術3回。
赤ちゃんの心拍を確認してからの流産2回。
一体何度子宮に針を刺したら、体にメスを入れれば許してもらえるんだろう。
訳もなく涙が出る日が続いた。
私は、3年程続けていた妊活で身も心も傷だらけになっていた。
とにかく流産がキツかった。
文字通り、真っ白な灰になりかけていた。
それでも、「立つんだ。立つんだ。シズカー」まだ灰になる訳にはいかないと、
なんとか顔だけをあげるような状態だった。
子作りがこれほど大変で、人間の力ではどうにもならないものだとは思っても見なかった。
タイミング療法なんて無に等しく、体外受精でもムリ。
究極の顕微受精までコマを進めるしかなかった。
しかし、2度目の流産を経験した後、私たちは一度妊活を止めてしまった。
一旦、ホルモン値だの、毎日の体温だの、お灸だの、針だの、サプリだの、ヨガだの、それと、それと…
妊活に関わるあらゆる事を全て放り出した。
旅行に行ったり、好きなお酒をたらふく飲んだり、わざと妊活とは真逆の生活をした。
そうさ。遅咲き人生。
どうにもならない事だってあるさ。
仕事じゃないんだから。
お子様は神の領域。
諦めるしかない。
そう思った。
そして泣きの1回! もうコレで終わり。
40歳になるから。
と臨んだ最後の治療で奇跡的に受精卵が2個凍結できた。
最初の出産は御年41歳の夏。
ミラクルにも流産することなく育ってくれた。
(で、子作りより、子育ての方が苦行だと後に知ることになるのだが…)
問題は、もう1つ凍結されていた受精卵。
早期に子宮に戻してあげねば、私の子宮年齢はもうギリを通り越して枯れてしまう。
きっとまた流産だろうと思った。
ところが、これまたすっぽんと産まれてくれたのだ。
43歳の冬。
(予定日は44歳の早春。かなりの早産だった)
ママとしては、だい〜ぶ遅いスタート。
『スローな人生』の象徴でもあった。
つづく…
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