aka. JOKER 2019
笑えぬ闇(ダークサイド)の誕生を目撃せよ!
“ジョーカー”、アメコミ映画好きなら誰しも知るキャラクターである。
1939年に誕生したアメリカDCコミックスのスーパー・ヒーロー、バットマン。 そこに登場する、宿敵「スーパーヴィラン(=超悪役または犯罪者)」がジョーカーだ。 過去、何人もの俳優がジョーカーを演じ、名だたる監督たちがジョーカーを描いてきた。 一体、そんな有名なキャラクターをどう料理しようというのか。 日本公開前からワクワクしながらその時を待っていた。 そのワクワクは、映画が始まるや否や背筋ゾクゾクに変わった。 後にジョーカーとなるアーサーの止まらぬ笑いが、観るものを一気に狂気ゾーンへと引き込んだからだ。
アーサーは、貧しい道化師だ。 ピエロに扮し商店のセール看板などを持ち、わずかな給料を頂く生活。 家では、病に犯され精神に異常をきたす老母と2人で暮らしている。 貧しいのはアーサーたちだけではない。 ゴッサムシティという街全体が疲弊し、ゴミの山とネズミとストリートギャングで溢れかえっている。 富めるものは一方的に富み、貧しいものは底辺の暮らしにむせかえる。 しかもアーサーは、幼児期に脳を損傷し、緊張すると笑いが止まらなくなるという持病を持っていた。 それでも、いつかスタンダップコメディアンになるのだという夢だけは捨てずに。
この導入部分を見ただけでも、とてもアメコミの世界の物語とは思えない。 そう、この映画は、アメコミ映画という枠で観てはいけない作品だ。 スーパー・ヒーローなど出てこない、一人の貧しい男の感情と内面を追った、非常に個人的なヒューマンドラマだ。
映画は、アーサーの日常を淡々と語り続ける。 それは、この上なく悲劇的だ。 日々をただ懸命に生きているだけなのに、アーサーの身には、これでもかと不幸な事件が降りかかる。 街の悪ガキたちにからかわれ、袋叩きにあったり、 仲間から護身にと渡された拳銃をうっかり小児病棟での仕事中に落っことし、ピエロ派遣プロダクションをクビになったり。 そんなある日アーサーは、地下鉄の中で絡まれ、ついにエリートビジネスマンたちを銃で殺してしまうのだ。
ジョーカーというキャラクターを知るものは、 アーサーがいつジョーカーへと変貌するのか、その瞬間を見届けようとするが、 いつ、どこで、という明確なイベントはない。 精神的に追い詰められていく過程で、アーサーは自分の中にあった闇をどんどん増幅させていったに過ぎない。
アーサーの感情がダークサイドへと迷い込む一方、 街では、富めるものを抹殺したピエロ姿の“ビジランテ”(=自警団的な正義の執行者)として犯人を讃え、 貧困層は皆ピエロの仮面やメイクを施し、デモや暴動を起こすようになる。 さらに、生い立ちの不幸までもがアーサーを引きずり落とす。 実母と信じていたが、実は養子だったとか、自分の脳の損傷は、母のかつての恋人による虐待が原因だったとか。 そして彼は気づくのだ。 「人生はずっと悲劇だと思っていた、でも、本当は喜劇だった」と。
そんなアーサーに一本の電話が入る。 人気テレビ番組のゲストに出て欲しいというのだ。 かつてアーサーが出演したナイトクラブでの映像をたまたま観た人気司会者のマレーが、 自分のトークショーに呼んで、観客からひと笑い取ろうと目論んだのだ。 いよいよ出演の日、アーサーは、家からピエロのメイクでダンスをしながら劇場へ向かう。 そしてマレーに言う。 自分のことを「ジョーカーと紹介してくれ」。 こうしてアーサーの一世一代の舞台が幕をあける。 その結末は…ぜひ映画館で味わって欲しいが、その時、アーサーは確かにもう99%ジョーカーになっていたと思う。
1%ほどの人間味を残したジョーカーことアーサーは、ピエロたちが街で暴れる様を虚ろな眼差しで見つめる。 その時の笑みこそが、アーサーの真の微笑みだったのではないだろうか。 やがて、興奮する民衆によって崇められた時、アーサーは車のボンネットで踊る。 ジョーカーの誕生である。
重い。 あまりにも重いジョーカーの起源。 この作品はしかし、DCコミックスのキャラクターの派生であることを忘れてはならない。 ところどころで、バットマンと言う存在の影がチラつくからだ。 ゴッサムシティと言う架空の街の設定はもちろん、 貧困に喘ぐアーサーが、もしかしたら実父かもと一時的に思い込むのは、 街随一の富豪で市長候補のトーマス・ウェイン。 誰あろう、後にバットマンとなるブルース少年の父親だ。 さらに、ブルース少年がバットマンへと変貌するきっかけとなる、両親が暴徒によって射殺されるという事件、 それがジョーカー誕生と時を同じくして起きる。 一人の男の心を巣食った闇が暴発した時、街全体が闇に包まれ、 一人の少年に闇を宿し、さらなる悲劇を生むことになる。 ただ、一方は、ビジランテと呼ばれるも、その後数々の殺人や罪を犯すジョーカーとなり、 もう一方は、本当の意味で影の正義のヒーロー、バットマンへと成長するのだった。
正直に言えば、過去のジョーカー役の中で惹かれたのは、 1989年の「バットマン」(ティム・バートン監督)のジャック・ニコルソンと、 2008年の「ダークナイト」(クリストファー・ノーラン監督)でのヒース・レジャーだった。 今回のジョーカーは、ジョーカーというより、アーサーとしての側面があまりにも強調されていて、 どうもバットマンの宿敵・悪者になる人物として見ることができない。 それほどホアキン・フェニックス演じるアーサーの笑いが強烈で、孤独と狂気に満ちていて、不気味だからだ。 これまでのジョーカーとは、全く違ったキャラクターと言っていいだろう。
また、こんな闇だらけでシリアスなジョーカーを作り上げたのが、トッド・フィリップス監督というのにも最初驚いた。 フィリップス監督は、最低最悪な二日酔いの男たちが、 酔った勢いでとんでもない失態を繰り返すドタバタコメディ「ハングオーバー」3部作で有名になった人物だったからだ。 けれど、よくよく考えてみれば、「ハングオーバー」に出てくる登場人物たちも、相当狂気MAXな言動を繰り返す。 それは大爆笑を誘うが、こちらの狂気MAXは、ただただ背筋が凍って悲しくなるという振れ幅の違いだけなのかもしれない。
クリストファー・ノーラン監督が作ったバットマンシリーズ「ダークナイト・トリロジー」(’05,’08,’12)の中の 「ダークナイト」(’08)で、ジョーカーとバットマンは壮絶な戦いをする。 その際、ジョーカーはバットマンにこう告げるのだ。 自分たちは似た者同士の「フリークス(怪物)」だ。 そして囁く。 「自分(=ジョーカー)を殺してみろ」と。 今回のトッド・フィリップス監督の「ジョーカー」は、 やがてバットマンと対決するジョーカーの物語の、序章のそのまた序章、そんな気がする。 できれば、フィリップス監督版のジョーカーが登場する映画バットマンを是非撮っていただきたいと、 バットマンファンは思う。
